明日、娘の障害基礎年金の申請の件で、娘が困った時に、生活支援や仕事のことなど全般について。
いざという時に相談にのってくれる障害者就業・生活支援センター(普段は、担当の職員の方と、娘が2ヶ月に一度くらいのペースで。何か困った事はないか?など面談してる。)
で社労士さんと面談する予定です。
申請書の項目にある生育歴を書くのに、幼少期の頃のことなど役に立つ?かと思い、久しぶりに押し入れから出してみました。(これは明日の面談に持っていく予定)
↑支援学校時代に、親の私は学校で市役所の年金課の職員さんが来校されての説明会で。申請の仕方は、ある程度。把握はしてる。
でも、申立書にある成育歴を書くのって、本当に大変なんです。だから、少し金額はかかるけど、プロの社労務士さんに、お願いしようという事になりました。
中身を読んだら当時の事が、頭の中に走馬灯のようにぐるぐると浮かんでは消え、あの時は大変だったよね。と思い出したら、自然と涙が・・。
先生の愛に溢れたコメントの文面。こんなに、娘は愛されていたんだなあと、実感する。
当時は、娘と向き合うのに必死で、そんな事を感じたり考えたりする余裕が、私にはなくて。
毎週月曜日に、受け取れるこのノートも、先生はどんな事を書いてくれたかなあ。
と、思うくらいの大した事は思ってなかったと思います。←今なら、本当に無礼。先生、ごめんなさい。🙇
当時はまだ、今のように少子化も急速に進んでいなくて、娘がいた最初の年少クラスで、17人か多いクラスで18人。それが5か6クラスだったかな。
年中、年長になると各学年5クラスになりますから、市内でも園児の多いマンモス幼稚園でした。
だから、園児ひとりひとりに、手書きで各クラスの園児の親御さんに向けて。
毎週、何日か分を思い出しながら書く作業は、本当に大変だったと思う。
もうすぐ20歳になろうとする今。
こうして改めてこれを見ると、きゅーっとなるよね。
私と娘は、年少と年中の2年間お世話になった先生が大好きで、その先生の「元〇〇組を代表しての〇〇ちゃん(娘)が、プレゼントを渡してくれたのですが、そこで既に号泣してしまいました。」
それを、観た瞬間。私は、大号泣。😭
何度も読んで、知っているけれど、こうして再び開いて文章を目にすると、泣いちゃうんですよね。
うちの子は、私と夫の意向で、年長クラスに上がらず年中クラスで。年少の時に、同じ年だったお子さんたちと一緒に、卒園させて貰っているので、だからノートが年少さんのが二つあります。
娘が生まれた時から、支援学校に入学した6歳頃まで、書いていた日記。
娘を産んだ産院で、退院する時に貰ったミッフィーのBaby Diaryです。
最初、どうしようか。
めんどくさいなあと思ったけれど、娘が成長して大きくなって、精神的に落ち込んだりした時や、何かの壁にぶつかった時に。
娘の力になるものになるかも?と思い直して、書くことにしたDiary.
娘が、一人暮らしで家を出ていく時か、それとも私がこの世を旅立つ時か。
どのタイミングかわからないけども、前述の幼稚園ノートとこのDiaryと、支援学校時代の高等部の時の担任の先生との連絡帳。を渡すと決めている。
小学部と中学部のは、あまりに嵩張るから捨てちゃったんだよねぇ。捨ててしまわなければよかったと少し後悔してます。(><)
娘は、幼稚園時代を、黒歴史だと言います。
発達障害だから、言葉も出ていませんでしたから、友達と話した記憶がないし、一人だったから、と。
普通の子供達と合わせることを、強要したようで、いきなり幼稚園に3歳で入園させてしまった事は、私も娘に悪い事をしたと思い、他に選択肢があったんじゃないか。
と後悔はしています。
でも、やっぱり。
この大変な幼稚園時代があったからこそ。
今の娘があるのだと思うな。
だからこそ。
先生たち、親から愛されていた事。忘れないでいてほしい。
園長先生の仰るように、今も、過去も。
あなたの幸せを、ずっと願っている事に変わりはないのですから。
本人には、そのへんのところが伝わりにくいのが、今の私の悩み。(苦笑)
昭和世代の私からしたら、恵まれてますよねぇ。園での日々の記録するものなんてなかったもの。
保育園のやたらと厳しかった女の先生。何故か、子供心に、大好きだったのを、覚えてる。
写真しか、残ってないから、先生の字で。書いたものがあったら。心の支えにきっとなっただろうから。